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メディアと広告とマーケティング、そしてサービスデザイン。

「データマーケティング」という言葉が嫌いだ

僕は「データマーケティング」という言葉が嫌いだ。

嫌いな理由を上げると、

 

1)そもそもマーケティングに「データ」を使うのは当然だろ?

 

もちろん「データマーケティング」という言葉が今もてはやされるのは、デジタルマーケティングの普及、そしてその背景にある“データが取りやすいデバイスを消費者が使ってる状況などから、DMPを筆頭に「データ」を扱いやすくなったことにあると思う。しかしながら、「データ」を使うのはマーケティング上当然のことなんだよ。なので今更「データマーケティング」なんてのは、「え?そもそもあなた達はデータを重視してこなかったんですか?」とツッコミたくなるバズワードなのだ。

当然、常々僕自身があちこちで言うように、「一見、新しくない言葉でも新しい言葉として取り扱われるには、その背景に新しさがあったりするので、当たり前過ぎることでも深掘りしてみないと本質的な部分が見えてこない」ということはあるのだが、こと「データマーケティング」という言葉については、どうもすっきり来ない。

この「データ」を使ってマーケティングの目標管理をするという点において、古典的しかし今でも有効かつ本質的な教科書となるのが、60年代初頭にRussel Colleyが発表し、その後 Solomon Dutkaによる書籍となった"DAGMAR approach"だろう。"DAGMAR"とは"Defining Advertising Goals for Measured Advertising Results"の略で、「広告のゴールを測定された広告結果から定義する」ということ。

 

この"DAGMAR"では購買プロセス上ないしは企業のマーケティング/広告上の各ステージごとの数値から課題を導き出し、数値によって管理する広告とマーケティングが説かれている。

他にも数値による広告・マーケティング管理手法はあるが、これが最も有名でかつもっとも本質をついたものだと思う。

新版 目標による広告管理―DAGMAR(ダグマー)の新展開

新版 目標による広告管理―DAGMAR(ダグマー)の新展開

 
Dagmar: Defining Advertising Goals for Measured Advertising Results

Dagmar: Defining Advertising Goals for Measured Advertising Results

 

 ※英語版で読むことがおすすめ。

 

2)「データ」と「インフォメーション」の違い。「データ」と「ノイズ」の扱い。

 

2つ目のポイント。「データ」と「インフォメーション」は違い、マーケティングで重要なのは実は「データ」よりも「インフォメーション」だと考えているので。

「データ」とはナマのものであって、それが意味づけられたものが「インフォメーション」。いわば「データ」そのものは何も語らない。語った状態のものはすでに「インフォメーション」になっている。この意味においてやたらと数値を収集してばかりいても答えが導かれないのは、それが単に「データ」だからである。

この「データ」と「インフォメーション」の違いについて、わかりやすく説明した記事があったので、そこから引用すると以下のようになっている。

Computers need data. Humans need information.

Data is a building block. Information gives meaning and context.

コンピュータに必要なのはデータで、人間に必要なのはインフォメーションである。

データというのは物事を組み立てるためのブロックで、インフォメーションというのは意味と文脈を与える。

In essence, data is raw. It has not been shaped, processed or interpreted. It is a series of 1s and zeros that humans would not be able to read (and nor would they want to). It is disorganised and unfriendly.

本質的に、データというのはナマのままのもの。それはまだ形になっておらず、整理されておらず、また解釈されてもいない。いわば、1とか0とか(の機械語)であって人間は読むことが出来ない(そしてそうしたくもない)。まとまっておらず 、触れにくいものである。

 

www.business2community.com

 

また一方で、「取れるデータが増えてきてるから、データマーケティングが重要なんだ」という話も聞かれるが、情報理論の基礎から考えると、「情報量が増えると、データだけではなく、ノイズも増える」というのが常識なわけであって、「デジタル化で取れるデータ増えたぞヽ(^。^)ノ!」なんて言ってしまうのは早計なのであって、「情報量が増えると、見なくていい数値も増える」ということも理解しておかないと、本当にデータを抽出して活用することなんてできなくなってしまう(このための仮説をもってデータを扱うことは当然重要)。

敢えていうなら、データを用いたマーケティングにおいて、今はむしろ「ノイズ」をうまく排除できるかどうかのほうが重要になってきてるのではないだろうか。

※そういった意味でよく出来ているDMPというのはノイズ排除の仕組みに長けているし、あるいはDMP上に掘り込む数値がそもそもノイズだったりしないのか?ということは考えておかねばいけない。

 

3)「データ」から分かるのは、過去なのか、今なのか、未来なのか。

 

社会学や社会統計学などを経験すると、「データの嘘」というものを学ぶ機会に出くわす。まことしやかに数字が並べられていても、それが限られた範囲内で導き出された数値だったり、あるいはバイアスがかかっていたりすることもある。それらを見極めた上でデータは使わなければいけないが、それと同時に、「データが語っていることはいつのことなのか?」というのを理解すべきだと思う。基本的に全ての「データ」が語るのは過去のことであり、それによって推論として将来のことを考えることができる、ということ。言い換えれば(特にマーケティングおいては)「データ」は過去だが、未来の不確実性を低減させるためのものとして使うということだ。

たまに「そのデータは昔のものでしょ、これからのことに役に立つの?」という場面に出くわすが、これはこれで正しいとも言えるものの、一方で「過去のスナップショットであるデータ」の使い方を正しく見ていない気がする。なにも過去と同じことが将来に渡って起きるであろうことを期待してデータを見るのではない。繰り返し言うが、不確実な未来に対して、一つの視点を与えるために使うものなのだ。

こうした点から、果たして「データマーケティング」という言葉を使う人々が、共時的にデータを使うのであればそれは全く持って愚だと思う。むしろ「データ」は通時的な感覚で使わないといけないと思うのだ。

 

4)「取れてるデータ」から分かるのはどの範囲なのかの理解。「取れてないデータ」が存在するということへの理解。

 

「データを重視したマーケティングをやってます」という人に出会い、話を聞くと、多くの場合「取れているデータ」のマネジメントをされているのだな、ということがわかる。確かにデジタル普及で「取れるデータ」は増えたが、実際にはマーケティングをより進展させるためには「取れていないデータ」や「取れないデータ」というのも存在することを理解しておくことが必要だ。

わかりやすいところで言えば、「購買プロセスにおけるメディア利用の調査」というものがあったとする。その際に調査設計をすると、調査する側が認識している「メディア」群が設問として並べられ、結果調査対象の回答もそれに対応したものとなる。もしかすると、調査設計者側が想定していないものもあるかもしれないのだが。これは「調査」というものの限界とジレンマではあるのだが、例えば「メディア利用の調査」や「購買時に参考になった情報源」といった調査結果を見た場合に、それがすなわち消費者/生活者/ユーザーの実態を正確に表しているものではない、と思えるかどうか。もちろん、参考資料としては意味あるものだが、あくまでもそれは調査実施者側が調査可能な範囲でとっているものである、という認識はしておかないといけない。

それゆえ、僕がマーケティングのプランを考える・立てる場合には、「データ」として浮かび上がってこないものをも重視することにしている。

しかし、上に書いたように、自分も「データ」そのものは軽視しない(そうでないと「データ」外のこともわからないので)。むしろ重視しているのだが、data-drivenよりも、data-oriented のほうがスッキリする。ただ、「データ」という超大量の砂粒が作るアリジゴクにハマってしまうことを、予め危惧しているということ。そしてそれを防ぐためには、「データ」というものが語る範囲を理解して置かなければならないこと。

これらを重視しているので、むしろ「データマーケティング」という言葉は業界のバズワードとしては非常に便利なものだと思うが、一方で、この言葉が孕むであろう「データ原理主義」というのは「データしかみない」という“思考停止”を生み出す気がせざるを得ないのである。