(メディア論的な文脈での)“メディア”としてのTV史アーカイブ "Television History"より過去に予測されたテレビの未来像をpick up してみた。
1926年5月号の"RADIO NEWS"の表紙を飾ったのは、円形のモニターが上部に取り付けられたまるで家具のようなラジオ受信機である。まるで、two-way コミュニケーション、つまり今でいうテレビ電話のような利用法が考えられていたらしい。
こうした予測 prediction もメディア史から考えるとまっとうである。例えば、東京大学の水越伸先生は『メディアの生成』でラジオの生成について次のように指摘している。
ラジオはもともと無線“通信”のデバイスから生まれている。その“通信”デバイスを売るために、誰かと会話をする代わりに定時的な“番組”をデバイス・メーカーが始めた結果、送信機能をはぎとった「受信機能だけを与えられた大衆的な家電製品」としてのラジオが成立した、という。現在において「マス・コミュニケーション」のメディアとしてとらえられているものも、過去においては「インタラクティブ・コミュニケーション」のメディアとしての様態も見せていた、ということだ。なのでこの1926年の写真だって、「ありえた」話なのだ。
次に、「1975年」のテレビ像。
こちらは、"TECHNICIAN"という雑誌の1955年10月号に掲載された。
すでにフラットTVの概念がここに。
テレビのコントロールユニットが、リモコンではなく、ジョイスティックのついた wired のデバイスなのがご愛嬌だけれども、いまから50年前に「像」として描かれたものが、この2年ぐらいのボーナス商戦となるとは。
さて、このようにたった二つの絵を見ただけでも、テレビの未来像を予測することは非常に難しい。
しかし、最近思うのは、よく言われる従来型のテレビ・メディア・ビジネス・モデルの低迷/崩壊=消費者のテレビ・メディア接触時間シェアの低下は、映像視聴のための“デバイス”と“コンテンツ”の「セット」の変化によることが一番大きいのではないか、ということ。テレビモニターで Youtube を見たり(WiiでYoutubeも見れるし)、PCでテレビを見たり、これまでの「セット(=組み合わせ)」ではない「セット」が生まれてくる。
なので、メディア業界/広告業界の従事者もこれまでのアタマの枠組み=「セット」で考えると対応していけないのである。
これから先、未来をとらえたいなら、アタマを
「リ・セット」