人のこと嫌いになるってのは、それなりの覚悟しろってことだぞ。 映画『バトル・ロワイアル』より。
イケダハヤト君は当初期待していた人材だったのだが、トライバルメディアハウスを辞めるぐらいからどうもただ勘違いしている若者なのではないかと残念に思うことが多い。一方で彼が言いたいことの真意は、ブログでの文章やツイートでの受け止められ方とは全く違うところにあるのではないか、と思うこともある。語彙力がない。もしかするとそれだけかもしれないし、実際のところ、校正をちゃんと受ければまともな文章になるのではないか、と。ただ最近は、自分を支持してくれる人の話しか聞かないのであって、批判する人に対しては話を聞かない、単なる意固地、若くして頑固者すぎる側面があるのかな、と。
例えば彼が新年一発目として書いたブログエントリ(ここから先はこのイケダハヤト君の文章を読んでからお進みください)、
「嫌われ者」になるべき5つの理由 | ソーシャルウェブが拓く未来.
などは、一見して賛同したい文章なのだが、まぁ僕も、代理店時代には「嫌われた」ほうだとも思うし、「嫌われ者」としての先輩として、ちゃんとこの文章を正しておきたいと思う。自分がやりたい道についてそれを周囲にやってみせて、それで「理解されない」ことについては、理解してもらおうとする努力と、理解されるときを待つ忍耐力というのが必要。「理解されない」としてもそれを「批判」ととるのは大きく間違っている。このブログのエントリーの中に、
そもそも「万人受け」という事態があり得ないものです。何かを変えようとした時、批判は「必ず」発生します。
という一文があるけれども、何かを変えようとしたときに起きるのは、変えようとした「アクション」に対する「拒否反応」として起こるものであって、それは新しいものへの理解/受容の難しさによるものだ。なぜ受け入れられないのか?を理解することは、自分が信じた道を進む上で重要な手がかりになるのであり、それらを「批判」というラベルを貼ったゴミ箱に捨てるのは、耳を貸さずに意固地になっているだけにすぎない。
この文章で最も残念なのは「恐れからの脱却」という部分。
何かを「世に出す」際には必ず、恐れが付きまといます。ブログを書くこと一つとっても「こんなこと書いて炎上しないかな…」とか思っちゃうわけです。 嫌われることを前提として受け入れられれば、そうした恐れは払拭することができます。
「記事を書いて炎上することへの恐れ」、「嫌われることへの恐れ」というのは結局のところ、他人からの視線への「恐れ」なのだが、それを克服する、脱却するというのであれば、なぜそれらの(彼の言う)「批判」と面と向かうことへの「恐れ」を克服、脱却しようとしないのか?
「嫌われることを受け入れる」というのは、「嫌われる」という方便によって自らの内面を守るための殻を作る作業なのであって、自分自身の弱い内面を曝けだすことへの「恐れ」がその裏には隠されているのではないだろうか。
賛否を呼ぶような作品は、時に人と人を繋げる力を持ちます。「マーラー好き」は「マーラー嫌い」と喧々諤々語り合うものです。
このあたり、文章のロジックが破綻している点は、ちょっと理解が難しいところだが、「マーラーの作品」や「バッハの作品」について、「好き」な人と、「嫌い」な人がいることと、「自分」について、賛同してくれる人と、批判してる人がいる、ということは大きく違う。前者は中心に「作品」が置かれてその周囲で議論が起きている。「作品」そのものは好きといってるほうにも、嫌いといってるほうにもどちらにも迎合することはない。しかし、「自分」が中心に置かれたときには果たしてどうだろうか?
批判されること、嫌われることを恐れ、誰かと繋がりを持つ/誰かと誰かを繋げるチャンスを失うことは、自分にとっても、社会全体にとって、大変もったいないことだと僕は考えます。
この文章、当初は、「批判されること、嫌われることを恐れ、批判する人、嫌う人とも繋がりを持つ/誰かと誰かを繋げるチャンスを失うことは、自分にとっても、社会全体にとって、大変もったいないことだと僕は考えます。」という意味かと思ったのだが、全体を通してみると、書かれている以上の含意はなく、「批判されること、嫌われることを恐れ、誰かと繋がりを持つ/誰かと誰かを繋げるチャンスを失うことは、自分にとっても、社会全体にとって、大変もったいないことだと僕は考えます。だから批判してる人、嫌う人は放っておいたとしても、賛同してくれる人とだけつながればいいんです。」という意味なのかと。
さて、ここまでを通じて思うのは、「嫌う人々」というのは自分自身が生み出してしまう存在なのではないか?ということ。例えばこの時点で言えば、僕自身はイケダハヤト君を「残念なヤツ」とは思ってはいるものの「嫌っている」わけではない。まぁ彼が僕のことを嫌っているかどうかは定かではないが、このような文章を書いてしまう時点で「自分のことを嫌っている人々が多数いる」と認めているようなもの。しかし、相手のこころなんてのは読めるわけはないので、実は「あの人は自分のことを嫌っている」と考えだすから、自分自身が「嫌われ者」なのだ、と自分で自分にラベルを貼ることになってしまうのであって、実は自分自身を「嫌われ者」と言うのは、「自己防衛」と「自己正当化」にすぎない。「認められたいから認めてくれない人を排除する」という「自己防衛」と、「自分自身の正しさ」を虚しく保つためには「嫌われている」ことにしなければ自分を守りきれないという"認知的不協和 cognitive dissonance"による「自己正当化」なのだ。
きっと、彼は自分自身を守りたいタイプなのであり、本当は誰からも嫌われたくないはずだ。それゆえ、自身を守り、正当化するためにこのブログエントリーが必要だったのではないだろうか?
※ところで@j_satoによる以下のツイートは関連ツイートの中でもっとも、確かに、と思ったものだ。
僕がイケダさんを嫌いな理由は、知的タフネスが不足しているため「批判」=「嫌われている」と思ってしまうところです。頭のよさが微妙な善人は嫌いです。 “@teranishi: 「嫌われ者」になるべき5つの理由 http://www.ikedahayato.com/?p=5484 @IHayatoさんから”
がつん、と。「対話」を重んじるなら必要だろう。
※ちなみに、文中にある2011年11月にパタゴニアが実施したキャンペーンの引用についても正しておくと、パタゴニアの広告=「アンチ消費」とするのは早計で、むしろパタゴニアが目指しているのは、むやみやたらに新しい商品を買うのではなく、buy fewer new products、つまり環境への負担が少なく、長く使えるような商品を必要なだけ買いましょう、という「正しい消費」である。DON'T BUY THIS JACKET は、やたらと消費を促す契機があるアメリカ消費社会の歪んだ構図を表しているのは間違いないが、そのコピーが出てきたコンテクスト(企業のミッションと社会的背景が織り成すもの)をちゃんと理解し、我田引水的に取りあげるのはやめてほしいもの。