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メディアと広告とマーケティングと。

facebookのプロフィール写真をいじる流行が来るたびに思うこと〜ソーシャルメディア時代の「世間」って何かな?

まじめ ソーシャルメディアとマーケティング

facebookのプロフィール写真を、フランス国旗のフィルターをかけたものに変更したのをよく見かける。

そしてそれをまた非難したり、拒否反応したり、意見表明するようなブログ記事やfacebookの投稿もこれまたよく見かける。

facebookのプロフィール写真をフランス国旗調に変えようが変えまいが、どちらでも好きにすればいいことなのに、変える人もそれはそれで本人の考えの話だし、一方でわざわざ「なぜ自分は変えないのか?」を長々と語る人もいて、その意見に「そうだそうだ」とコメント寄せる人々もいる。

この状況自体が変である。

結局のところ、二種類の同調意識がそれぞれの側の人々にも働いていて、変えることへの同調、変えるという同調意識への反発という同調意識が働いてるだけでしょうこれ。

みんなそんなに他人のことが気になって、わざわざ意見表明までしなくちゃいけないわけですか?

ああ、めんどくさいですね。

みんなが自分の好きなようにすればいいだけで、互いに放っておけば良いんじゃないですかね?

思うに、日本人みたいに周囲の目線が気になりやすい社会的性格を持っていると facebook ってある意味において負に働いてしまう部分があるかもね。

ちょっとした出来事がまるで「世間」のように見えてしまうような。

実際は facebook のタイムラインに出てくることは、アルゴリズムによって表示は変わるわけだし、しかも自分のタイムラインに表示された投稿群はミクロな世界なのであって、世の中の写し鏡ではない。でもまるで「世間」なのかのように勘違いされやすい。

一方で、日本人にとっても趣味の世界などには非常にfacebookはいい(特にマニアックなことなどやってるとfacebookがなかったら得られないコミュニティに参加できるのでメリット感じること多い)。この点においては、なかなか物理的にリアルな場だけだと見つけにくい・繋がりにくい人々とつながり、そして得られにくい情報が得られる。でも、それは普段「世間」と意識してるものではない。

基本的に「世間」というのはそれ自体が「これが世間である!」という明確な形で存在するものというよりも、自分が気にする人々の目線だったり、他人の意見なんじゃないかな、と。

人間関係を拡張するなら、その功罪も拡張する(Wired)

その昔書いたこの文章を振り返ってみると、やはりソーシャルメディアは面白い。

リアルとバーチャルという2つに分けてものごとを考える時代ではなく、その2つが融合してしまっている世の中なので、他人の目が気になる人にとっては、デジタルで「より他人の目が気になる」ということが拡張されていたりするのではないかな。

と、考えると、「世間」というものを改めて、ソーシャルメディアの時代にとらえなおさないといけないなと思う。

そういやオリンピックのエンブレムのときも、同じような話だったんではないかな、結局。

[関連文献]

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