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mediologic

メディアと広告とマーケティングと。

いわゆる創作物における”共同制作”って?~ それは”共同制作”とは言いません問題

つらつら

巣間内駅
from 大河銀四郎的世界

 

皆さん申し訳ありません。

いままで、このブログに書いてきたことも、各種媒体に寄稿してきた記事も、Twitterでのツイートも、Facebookでの投稿に至るまでゴーストライターによるものです。

『次世代コミュニケーションプランニング』『インバウンドマーケティング』も、『フェイスブックインパクト』『標準Webデザイン講座 基礎編 第2版』『次世代広告テクノロジー』『ポスト3.11のマーケティング 企業は、消費者は、どう変わるか?』『アトリビューション』、そして『ポケベル・ケータイ主義!』に寄せた文章もゴーストライターが書いており、子供の頃に好きだったアニメに「ゴールドライタン」があります。ちなみに、ニコラス・ケイジの映画は『ゴーストライダー』です。

もしかするとセミナーなどで登壇してる高広は、ゴーストかもしれません、ネットは広大なので。そして、パトリック・スウェイジとデミ・ムーアの懐かしい映画は『ゴースト』です。

【速報】イケダハヤトがゴーストライターを使っていることを告白!「ぼくの本、半分くらい編集者が書いてます」 | 面白ニュース!netgeek.

さて、いんすぱいああど・ばい上記のリンクなのですが、ゴーストライター問題についてはここまで引っ張っときながらあまり興味はございません。すみません。

ただ、上記リンクの先のリンク先のほうで、

ダ・ヴィンチとかミケランジェロとか、ルネサンス期の絵画作品なんかは共同制作も多いんですよね。歴史的に見れば、むしろ「独りで制作する」という道の方が珍しいのかもしれません。

という記述を見まして、バカ野郎!とうちゃん(じゃないけど)情けなくて涙出てくらぁ!という感じなったので、この文章を書いております。

ちなみに、かのアンディ・ウォーホールがファクトリーで彼の賛同者たちの手を借りて作品を生み出したり、村上隆さんの非常にユニークな試みであるカイカイキキでの作品制作などは、普段「共同制作」とは言わんでしょう。

二人の作家が一つのテーマに対してコラボレーション collaboration を行うのは確かに「共同制作」や「合作・共作」といった言い方ができるかもしれません。

しかしながら、「ダ・ヴィンチやミケランジェロだって、誰かの絵を借りなければ作品を生み出すことはできなかったし、誰かの手を借りてるのだから彼らの作品は”共同制作”だ!」なんて言い出したら、これは無勝手流自己完結型解釈となってしまいます。

そこで、こうした芸術作品における”他人の手も借りて生み出される”というテーマについてちょっと書いてみたいと思います。

このテーマは1982年に出版された Howard S. Becker という社会学者による『Art Worlds』という書籍で主としてとりあげられてるもので、芸術社会学と呼ばれる領域における名著中の名著です。

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社会と芸術という関係については、芸術の世界でも長く語られてきていましたが、Beckerは職業社会学とも呼ばれる分野や理論社会学、社会的弱者(マイノリティ)研究などでも知られる、シカゴ学派に属する社会学者で、もっと知られた理論には「ラベリング理論」というものがあり、よく読まれる本としては、『アウトサイダーズ』という作があります。

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さて、Beckerの『Art Worlds』で面白いのは、「芸術世界」を構成しているのはアーティストという、才能を持った一部の人たちだけではなく、それらをサポートする人々も含めて形作られているという研究であるということ。

例えば、制作チーム、いろんな委員会、補修作業をする人々、作品を評価する人々、批評家、ギャラリーなどの作品の販売を行う人々、といった人々で構成されるのが "Art Worlds"と指摘しています。

つまり、芸術活動というのはアーティストに焦点を当てると確かに個々の作品になるわけですが、一方でもうすこし大きな視野で見ると関わる人が多い"集合的行為 collective activity”と見るわけです。

このことが、「何をアート作品とするのか」ということの定義にも影響するという考え方もあります。

例えば、ダダイズムの巨匠、マルセル・デュシャンが『泉』という便器を横倒しにして、偽名である R.Mutt という署名をした作品を1917年のニューヨーク・アンデパンダン展に出品しようとしたたところ、”こんなもんは作品とちゃうわー、ドアホーっ!持って帰れ、ボケェぇぇl”と言って追い返された、という有名な逸話があります。

なぜこれが注目すべき話なのかというと、ひとつにはアンデパンダン展というのは「無監査(無審査)・無褒章・自由出品」の展覧会であり、にも関わらずデュシャンの「作品」は「作品」として認められなかった、ということにあります。

Beckerの『Art Worlds』には "discourse of universe"という概念が出てきていて、単純に日本語に訳語が思いつかないのですが、言葉・モノとか行為がそれが発話されたないしは行われた文脈(コンテクスト)の中でどういう意味を持つのか、といったことを指します。つまり、言葉・モノや行為というものはそれ自体がすなわち意味を持つというよりも、その意味を持つ・生み出すメカニズムがあるといった感じの理解でいいかと。

で、デュシャンの『泉』の話に戻りますが、追い返されたわけですよ。自由出品の展覧会なのに。

でも今では、それは立派な芸術作品として、”レディメイド”というジャンルとして認められて、美術館に所蔵されています。

(このアンデパンダン展にデュシャンが関わっていたことから、この騒動自体が彼の仕掛けた「戦略PR」だったという説もありますが、今回はこの話はおいておきます)

さてこのデュシャンの作、「作品」としては何も変わっていません。「作品」そのものに変化があったから芸術作品として認められたわけではありません。”解釈をする側”が変化をしたわけです。「作品」を取り巻く世界が変化した結果、『泉』を「作品」として取り上げる Art Worlds になったと言えるのです。

つまり、Art Worlds の世界で考えると、作品が作品として成立するためには、作品だけではなく、その制作過程にかかわる人々、それをプロモーションする人々、買う人々、など色々な人が関わります。

こうした人々が創作を助けることを、「コラボレーション collaboration」や「コプロダクション coproduction」といった言い方はしません。「集合的行為 collective activity」として作品が生み出され、世にでることをサポートする人 support personnel としての働きと言うのです。

コラボレーションやコプロダクションであれば、共同制作でしょう。

ただ、ルネサンスの時代においてはパトロン・システムや”芸術家の創作を助ける職業”も存在していたことから、これらの人々が関わったからといって「共同制作」とは言いません(まぁ、作家がねぎらいや感謝の意味で「ありがとう!これはみなさんとの共同制作です!」っていうことはあったかもしれませんが)。先のアンディ・ウォーホールのファクトリーにおいても同様です。

このあたりはちゃんと整理して、理解しておきたいものですね。 勝手な自己流解釈ではなく、ちゃんと先人たちの考えをもとに。はい。

というわけで、ダメダメな文章に編集者が手を入れまくって最初のカタチとは違うものになったとしても、それは「共同制作」ではないですし、そもそも「ゴーストライター」ってのは、口述筆記してもらうとかいう類のものとか、まぁ職業ゴーストライターみたいなものがありますが、それも「共同制作」というものではないわけです。

まぁ、コラボレーション/コプロダクションとコレクティブアクティビティ、なんていう概念を知っておくと、世の中を見るときのフレームワークに、ちょっとよいかもしれません。

あれ?なんでこんなの書いてんだ?

あ、そうか、昨日、この4月からKBSの先生になる東大の博士号を持つ女性とメシ食ってて、ちょうど芸術作品が社会に認められる過程についての話をしたからか。

と、ふと我に変えるように、この文章はここで閉めさせていだきます。

※先の本や記事がゴーストライターによるものかどうかは皆さんの想像力次第でごさいます。

※またこの文章は、どうしようもない記事から高尚な文章を書いてみるという実験です。

※この記事はアフィリエイト用に書かれています。皆さん上記のリンクを踏んで、どんどんamazonでモノ買ってください。

注)この記事はゴーストライターによるものです。

大歩危駅
from 大河銀四郎的世界