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表現は時代によって枠組みが変わるものではないのかな〜年末のガキ使いにおけるエディ・マーフィのものまねの件に思うこと。

年末の浜ちゃんの『ガキ使』のエディ・マーフィのものまねの件、ソーシャルメディア上を含めたさまざまな議論には、相変わらず2つの見方のレイヤーの話が混ざって議論されてるなぁ、と思う。

 

1)あれはエディ・マーフィへのオマージュで、黒人をバカにしているわけではない。あれがNGだなんて不寛容社会。表現の自由が無くなる。

 

2)そもそも黒人以外が顔を黒く塗って、身体的特徴を表現をすること自体が差別的と考えられる。

 

 

1)の意見もわからなくはないんだが、例えば「肌色」という色鉛筆やクレヨンが無くなる世界を見ていると、時代はポリティカルコレクトネスのほうに向かっているので、2)を前提にしてパロディやオマージュもやらなければいけない、ケアしけなくていけない時期に入ってる、ということじゃないかな。

だから、これをもってして表現が息苦しくなると考えるのではなく、表現の仕方も時代の変化にあわせて考えなくちゃいけないということなんじゃないかな、と。

例えば、キッチンを表現した広告クリエイティブなんて、今はもう女性だけがその前に立ってるようだとNGくらうんですよ。それと同じような、時代に応じた表現をしなくちゃいけないのだ、という、1)か2)かどちらかということよりも、その先のアウフヘーベンした表現を選択しなければいけないということなんじゃないですかね。

僕は表現というのはいつの時代においても普遍なルールがあるというものではなく、その時期時期に応じて許容される範囲があるものではないかと思う。有名な赤玉ポートワインの女性が上半身をはだけたポスターも、当時は結構物議醸したらしいしね。今ではあれがそこまでエロティックなものだとは思わないでしょうが。