1970年という、大阪万博の喧騒の中、僕は生まれた。
物心ついたときにはその会場は「記念公園」となっており、テーマ館そしてシンボルであった「太陽の塔」、今はなきエキスポタワー、鉄鋼館、ひっそりと佇む日本民芸館、そして錆び付きはじめた巨大噴水が、当時の模型やガイドブックが伝えてくれていた万博のイメージからすると非常に寂しいモダン廃墟を感じさせていた。
「記念公園」は緑が多く、ピクニックの家族連れやそれこそフリスビーなどが似合う。しかしそうした風景とは対照的な寂しさが、各パビリオン跡地に埋められたそれぞれの記念碑が醸し出していた。
それが子供心に自分が感じていたこと。 今、大人として大人言葉に直せば上記のようになる。
自転車を何十分も漕いで、小学生の時代から通っていた万博公園。 その目的は、ひときわ巨大な黒い建物であった。
一見無機質で、むしろ謎の巨大遺跡のような風貌を持つその建造物が『民族学博物館』という研究施設で、啓蒙施設であった。 世界のエリアごとにまとめられた各民族資料が、自分の知らない地域への興味をかきたてる。 ほとんどの展示物に細かい説明書きはない。 それゆえに、個々の展示物が、「これは何?」「これはどういった時に使うの?」と自分の想像力に挑戦をしかけてくる。
そう『民族学博物館』は、知識を得るための博物館ではなかった。 考える、想像する、ということを教えてくれる博物館であった。
また、この博物館には最先端の情報ライブラリーである「ビデオテーク」というものがあった。 研究員達が集めてきた世界中の映像資料を見ることができる、半個室型の映像設備だ。 「ビブリオテーク」というフランス語の”図書館”という言葉をもじり、映像の書庫しての「ビデオテーク」。 入場券がそのまま映像を見るためのチケットとなっていたのだが、もう一本みたければ、またチケットを発行してくれたっけ。
各民族資料には説明はなく、 そして映像資料はその民族のライフスタイルそのままを映しだしていた。
今思うと、マクルハーン的な言葉を使えば、これほど”クール”なメディア装置はなかったのではないだろうか。 非常に関与度が高く、自らの好奇心や想像力と遊ぶことができなければ、よほど楽しめない装置。
いやもしかすると、非常に”雄弁”な装置だったのかもしれない。
それぞれの資料は、実際に使われていたものがほとんであり、 それ自体がそれぞれの民族のコンテクストの中に存在していたもの。 つまり、こちらが耳をすませば、それぞれ自身が語りかけてくる。
考えれば考えるほど今の自分を形成してくれたのは、この『民族学博物館』という教育装置だった。
この装置を生み出した、梅棹忠夫氏が亡くなった。
梅棹テキストに若い時期からずっと触れてきた自分にとっては、今日というときほど、リオタールのいう「大きな物語」の終焉、というテーマについて考えざるをえない日はない。
梅棹忠夫という人物は、リオタールが批判したいわゆる正当化した物語を生み出す「知識人」ではなかったように思う。 むしろ世界中に散らばる「小さな物語」を収集し続け、知識人でありながら、「大きな物語」を導きだそうとしていたわけではない。
もし彼が失明を免れ、現在のネットの状況を目にし、それを語るとしたらどのように語っていたか。 きっと彼は新たな文明の生態史観や知的生産について語っていたに違いない。
大きな存在が消滅した、埋められない知の巨人の存在。
合掌。
今の20代〜30代前半の、IT業界、広告業界、メディア業界、マーケティング業界の若者に、特に読んで欲しい、梅棹テキストは以下。これを読んで、今起こっていること、について考察してみてほしい。