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twitterについて思う、“場”の不在と”パーソナリティ”の存在。

twitterがこれまでのコミュニティやSNSと違うのは、電子的な場所の不在にあるのであって、それはJoshua Meyrowitzが言った"No Sense of Place"のような、”場所感覚”が不在になるといった浮遊感でもなく、そもそも”場”というものない、ということにある。

個人のページも他のSNSなどと違い、パーソナライズされた場、とまでいうほどのものでもない。 また、従来のコミュニティやSNS的な、会話するための”部屋”や”場所”的なところもない。あるのはハッシュタグであり、それは話題やイベントごとに作られる、人工の河川のようなもの。それぞれのタイムラインから流れだすつぶやきが集まり、支流からの流れを集めた巨大な河川になっていくが、その河川は、ロプノールのごとく現れ、消え行く。

この”場”や”場所”の不在を成り立たせているのは、アカウントそのものにある。 アカウントがなければいかなるやりとりも成り立たないし、ネットワークの中に入ることもそこに流れを注ぐ源流となることもできない。

しかしながらこのアカウントは容易に変更が可能。ついでにURLも変更できる。 なぜそもそも、アカウントという、貴重な”ID"を容易に変更できる環境を成り立たせているのか。

それは、”場”が不在である一方、それぞれのアカウントを成り立たせている要素が”個”にあるのではなく、そのフォロワー群という”網”にあるからだろう。

twitterでは、あるアカウントを削除して、新規に別アカウントを取る、という行為以外では、自分の”名前”を変更することが容易にできる。アカウント名を変えたとしても、そのフォロワーたちはそのアカウント変更を意識することなく、フォローし続けることが可能。つまり、アカウントはその持ち主によって存在させられてるのではなく、フォロワーたちによって存在させられているのである。

つまり、”アカウント名”という”名称そのもの”ではなく、”メタ・アカウント”とでもいうべき、フォロワーによってフォローされている”パーソナリティ”そのものがtwitterにおける”個”なのだろう。

※まだいい言葉が思い浮かばない。。。”アカウント名”というもの自体が”存在を成立せしめてる何か”ではないんだよな。