読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

mediologic

メディアと広告とマーケティングと。

THE END ~ セット不在、演者不在、観客不在の電子オペラ。

つらつら

金曜日、東京公演の千秋楽にあたる回で『THE END』を見た。オフィシャルサイトでも言及されている“電子の要塞と化したオーチャードホール”という触れ込みの期待に対し、多少遅れてチケットを手に入れた割りにはいい席に着席をしてみた感想は、「どこが電子の要塞やねん」とツッコミを入れたくなるような普段通りのオーチャードホールである。とはいえ、この会場に来ること自体がマイケル・ナイマンの来日コンサート以来なので、普段通りというほど来ているわけではないけれど。「電子の要塞」という言葉を聞くと、「スーパーマンIII」のサブタイトルをふと思い出してしまう世代であり、かつ、音楽的な文脈で言えばYMOの70年代〜80年代のライブで使われていた家具サイズのアナログ・シンセあたり、もっと遡れば川崎弘二の『日本の電子音楽』や田中雄二の『電子音楽 in JAPAN』に描かれる50年代〜70年代あたりの「電子音楽」の世界で使われてた巨大な“楽器”のイメージがあるから、それからすると「電子の要塞」というほどには“何もない”。アナログからデジタルへの移行の過程で「電子」と呼ばれるもの自体の運ばれ方が変わり、舞台に置かれるモノもいかにコンパクトかつ、見えないものになったのか。

舞台空間に置かれたものは、ドイツの映像プロダクション CPP Studios が“VIZOO”という名前で発売するソリューションの一つ、"Free Format"に似たもので、擬似3Dの映像を映し出すために作られた半透過性のスクリーンを数枚、そして渋谷慶一郎氏が音楽装置と触れ合うための場、以上である。つまり、舞台装置として通常配置されるはずの立体的かつ物理的なセットは不在で、そこには「主役」である初音ミクを存在させるための装置があるだけであった。この特殊なスクリーンとプロジェクションの組み合わせは、他の初音ミク(及び鏡音リン・レン、巡礼ルカたち)のライブでも使われる定番的なものなので、おそらくはこれらを知っている聴衆からすれば物足りなかった可能性もある。しかも、(オフィシャルサイトによれば)1万ルーメンのプロジェクションということであったが、実際にはもっと暗い印象だった。もともとYCAMのような場所でスタートしたプロジェクトとしてはこの表現でよかったのかもしれない。しかしながらオーチャードホールのサイズに、これらが追いついてなかったのではないだろうか? また映像技術的には、「電子の要塞」感を出すには少し古い表現手法かつ初音ミクを知る人には見慣れたものゆえ、残念ではあった。できれば日本では不幸にも限られた空間での表現技術としてか使えない3Dプロジェクションマッピングなどで、オーチャードホール内全体を使うような表現をしてほしかったが、まあこれは個人的には映像にも期待していたからではあるけれども。

さて本編の話。とはいっても難解なセリフ回しを細かく語るのは無理だし無駄だと思う。が、今回は、『THE END』が『VOCALOID OPERA』ということで、かつオーチャードホールに拘ったということらしいので、オペラの文脈である程度見ないといけないだろうと思う。しかしながら、実質的に登場するのが初音ミクひとりゆえ、多数の歌手が歌う、オペラ最大の見せ場であるようなアンサンブルは無い。レチタティーヴォといわれる”朗唱”(=抑揚を持って歌われる朗読的なもの)とアリア(独唱/詠唱)しかない。ただ、レチタティーヴォと言っても、ボーカロイドのレチタティーヴォは、そもそも抑揚がない電子的な声ゆえに非常に”聞きにくい”。通常のオペラであっても(よほどのファンかストーリーを追いかけることがちゃんとできなければ)寝落ちしやすいものだと思うが、抑揚のないレチタティーヴォと意味がとれないセリフのつながりによるボーカロイド、初音ミクのそれは観客席に多数の寝落ちを作り出していた。ボーカロイド業界(?)では、「調教」という言葉があって、音楽にあわせて適切に発声・発音させるための調整することを指す。アリアのようなものであれば「調教師」の腕の見せ所だし、”聴きやすい”ものになる。だからアリアのパートについては聴衆の多くも楽しめるものであったと思うが、レチタティーヴォのパートについては合わせる音楽がないがゆえなのか、抑揚のない単調なものになっていたので、ある種の「苦行」になってしまったのだろうかと。

また、90分の中で多くを占めるレチタティーヴォ(と言っていいのかどうか)については、非常に難解かつ意味を成さないような会話が繰り広げられるので、正直なところ多くの観客はついていけなかったはず。広告代理店時代の先輩にあたる電子工作好きの galliano こと阿部さんもブログにて、「話が相当難解で、よくわからないままどんどん進行して行く」、「圧倒的情報量が次々と送り込まれる中で、ストーリーだけがさっぱり頭のなかに入ってこない」と感じたらしい(最後にはハタとわかった!らしいですが)。

まぁ僕自身もわかったかどうかというと、わかりません。というか、consistency 映像とセリフについての全体的な一貫性が無いように見えて、ピースのあわないジグソーパズルを目の前に置かれたような気分。このピースとこのピースをあわせて、、、お、うまくハマりそうだ、、、とおもって進めていくと、あわないピースがいくつも出てくる。そんな感じで展開されていくので、これはより抽象的なレベルで理解するしかない、と途中から考えだすとともに、いや、そもそも「理解する」ではなく「感じる」ことが大事なんだよ!という意見も出てくるのだろうなあ、とも思い出すことになってしまったゆえ。一方で阿部さんが、「いやぁ凄いですね凄い凄い。情報量凄くて音もでかい。全然意味わかんないけど最新テクノロジー万歳!ボカロ最高っ!そう片付けるのは簡単だけど、それではどうにも面白くない。僕の場合、何を見ても『良かった』だけじゃあ物足りないんです。」というように、(これは広告の業界で企画をやっている人間の性なのかもしれないが)やはり「説明」は必要で、それは別の誰かに話すためだけではなく、自分自身が消化するためにも必要な「説明」を終演後もうーんうーんと考えた流れでこの文章を書くにいたってるわけですが、僕自身の僕自身による説明として。

で、話はもどって初音ミクのセリフ回しと全体のストーリーですが、これを自分なりに自分へ「説明」するために頭のなかの引き出しから引っ張り出してきたのが、“DK96”こと「伊達杏子」と、ウィリアム・ギブソンの『あいどる』の2つ。  「伊達杏子」は90年代にホリプロが生み出したヴァーチャルアイドルで、CDデビューや韓国デビューも果たした、当時としては意欲的な試みだった。当時は伊集院光が生み出した「芳賀ゆい」や『ときめきメモリアル』の「藤崎詩織」といったヴァーチャルアイドルがある種のブームを持っていた時代の中で、伊達杏子が成功しなかった理由は(開発とマーケティングの問題はあるにせよ)、「人格を与えすぎた」ことがあるのではないかと僕は考えている。例えば、伊達杏子の場合、「バイトをしていた福生駅前のハンバーガー屋でスカウトされた」とか、「家族構成は両親と一つ年下の妹の四人家族で両親は寿司屋をやっている」とか、「趣味スニーカー集め」だとか、いわゆる「アイドルっぽい」人格を「設定」されていた。一方で、初音ミクにはそのようなものは存在しない。つまりはCGやアニメで構成された初音ミクの歌っている姿以外に、僕らは”彼女”の人格も悩みも知らないし、そもそもそのような存在として見てない可能性が高い。それもそのはずで、伊達杏子のようにプロデュースした側が細かく設定をほどこした「人格」などは皆無で、初音ミク自身がWikipediaと同様に人々のクラウドソーシングの結果生み出された存在だからこそ、抽象的で象徴的であり固定化された人格など持つはずもない。その人格がないはずの初音ミクのひとり語り、そして異形の存在との会話などは、人格をもった初音ミクという前提があって読み取るはずができるはずがないだろうと。

ギブソンの『あいどる』では主人公の「あいどる」はホログラムであり、特異点でもうひとつの主人公であるミュージシャンのレズとつながる。ホログラム的存在である点では人々への現れ方としては今回の初音ミクはまさに同じようなものであるが、「あいどる」と「初音ミク」の大きな違いは後者はその姿は商業的にプロデュースされたものではなく、ファンの側から生み出されたもの(ここで、ふと自分が97年に書いた文章を思い出したのでここにあげておく)。もともと「ボーカロイド」であり、「はじめに声ありき」な「電子音楽」として初音ミクは産まれたわけで、その初音ミクが今回の「VOCALOID OPERA」で、「死と生」やアイデンティティに関して違和感を感じたところで、それはなんらおかしなことではないのではないか?

 

『THE END』関連のツイートでもっとも的を得てると思ったのがこのツイートだった。「無人格のはずの初音ミク」が人格や生と死に向かって向き合う、というこのこと自体がこのオペラそのものであって、実はその中で語られることはパズルのピースにすぎない。ただし、そのパズルが、二次元的な平面世界ではまるピースだけで構成されているのでなく、三次元的な立体世界の中でこそ完成するピースで構成されているからこそ、難解になってしまうのだろう。

オペラの起源は「ギリシャ悲劇」に遡ると言われる。そして本体のギリシャ悲劇の形態は、仮面をつけた俳優が舞台上の合唱団とのかけあいで話を進めていくというものだった。それゆえ、演者が一人であること自体が普通で、のちに二人、三人と増えていったという。『THE END』はこうした意味では、初音ミクと渋谷慶一郎によるもっとも原初的なオペラであるとも言えるだろう。または、明確なストーリーは存在せず、象徴的なシーンがモザイク状に現れていく、フィリップ・グラスによる『浜辺のアインシュタイン』のように超実験的なオペラであるとも言える。

ただし、通常のシアターのように、少なからず感じられる演者と観客との精神的なインタラクションはまったくもって不在。演ずるのは初音ミクだけであって、彼女が観客を意識することなどなく、僕らはプロジェクターから発せられ構成された光を見ているだけであり、その光の集合体からはこちらに観客がいることは当然意識されることはない。つまりは、彼女の独り言ともう一つの何かとの会話で構成され、劇中に出てくる初音ミク以外の存在についてなんら説明されないまま終わり、観客が置き去りにされたとしてもそれは至極当然なことなのではないか? いわば観客はあるはずのない初音ミクの心象風景を覗き見している立場にすぎないのであり、それゆえに観る側にとって、これほど、理解不能なものとして本作を「完成」させることができているのかもしれない。

見方によっては、もっとシンプルに、ギブソンの『あいどる』のように音楽家渋谷慶一郎とヴァーチャルアイドル初音ミクのストーリー、とも言えるかもしれないけれど、それではあまりにも電子要塞におけるロマンティシズムに駆られすぎるので封印。

YCAMで見たかった。