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メディアと広告とマーケティングと。

「広告」 1997/8/15 「メディア人間学」(京都新聞)掲載

ロベール・ゲランという人の次のような言葉がある。「我々が呼吸している空気は、酸素と窒素と広告からできている。」

確かに広告の無い生活なんてありえない。しかし「広告とは何か?」と言われると空気の構成要素を答えるのに比べて非常に難しい問題になってくる。それは広告が、実は実体として広告は「ある」のではなく「なる」という側面があるからかもしれない。

例えば世界的な服飾ブランド「ベネトン」の広告のことを考えればすこし見えてくる。ご存知のように、すでにベネトンの広告に自社製品が顔を覗かせることはない。描かれているのは、血に染まった死んだ兵士の軍服、生まれたばかりでへその緒がついたままの赤ん坊、コンドーム、男女の性器がズラリ並んだもの...。隅のほうにロゴがあって初めて広告だとわかる。仕掛け人は写真家でもあるアートディレクターのオリビエロ・トスカーニ。彼によれば「(今の)広告は死んで」いて、「甘い」言葉を投げかける「香水をつけた死体」だというのだ。この言葉の真意は、彼特有のレトリックも入っているので、一面的にとってしまうと誤解をまねくだろう。しかし、彼の「挑発的な」広告(普通、広告は「誘惑的」であるハズなのだ!)は、広告が作り出した世界でのタブーへの挑戦でもあると僕は思っている。言い換えれば、社会で広告として認められるものは「夢」を見させるものであり、「不快感」を感じさせるものは広告でない、ということへの挑戦だと。

このことはダダイズムの芸術家マルセル=デュシャンがアンデパンダン展で無審査の展覧会であるにも関わらず出展を拒否された事件と通ずるものがある。彼は別名を用い、男性用便器に署名をしただけの『泉』という作品を提出したが委員会によって拒否されたのだ。今でこそ『泉』は芸術作品と認められているが、それ以前はそれを「作品」とするコンテクストが存在しなかったのだ。「芸術作品はかくあるべし」というコード体系があり、その中にあてはめられたものが「作品」に「なって」きたのであり、最初から「ある」のではないのだ。

ベネトン=トスカーニの広告は、「広告はかくあるべし」というコード体系が存在することを我々に気づかせた(そう言えばトスカーニは「広告は芸術家のメディアである」と言っている)。そして当初は認められなかったベネトンの広告が、(当然アンチの人もたくさんいるが)徐々に「広告」と認識される状況になってきたということは、それが広告に 「なり」つつあるということであろう。