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mediologic

メディアと広告とマーケティングと。

歩んできた道とかキャリアとかそういうのは不思議なもんで、

未分類

ある人から、「タカヒロさんは小さいころからエリート街道まっしぐらできたんでしょ?」っていわれたので、履歴を書いてみる。


幼稚園/関西大学幼稚園
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小学校/大阪教育大付属池田小学校へ入学希望するもエリア外のためお断りされ、箕面市立東小学校へ。(あ、ちなみに小学校~中学校はいじめられっこでした)。
当時、親はまじめに勉強するこどもに育てようとしてくれたみたいで、ちゃんと予習をしていくこどもだったけれど、あるときカリキュラムに沿わないものはやってくれないという先生がいて、予習の結果、わからないところを聞きに言ったら「それはまだ授業でやってないから教えられない」と言われ、予習をする癖はその時点でなくなり、かつ学校の先生というものに不信感を抱くようになる。この先生にとっては「すべての生徒が同じ時間で同じスピードで行うことが“平等”」だったのだが、きっとこの体験が、たとえばいろんな会社の中での“平等”的な考え方が会社を悪くするんじゃないか、と直観的に思うようにさせてるんだろう。在籍した、二つの広告代理店のことだけど。
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中学校/順当に、箕面市立第四中学校という当時14クラスもあったマンモス校へ
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高校/中学の先生に「お前は絶対受からんし」と言われたので受けた高校、大阪府立北千里高校入学。高校時代はよみうりテレビ主催の『高校生クッキング選手権』に出場し、決勝へ。勉強してなかったような。。。
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浪人/とほほ。どこ受けたかも覚えてない。代ゼミなどに通う。美大受験したかったが、九州男児で技術者の父に「経済学と世の中でて役に立つものやれ」と言われ、断念。一方で、高校時代に出会った本の影響(結構この本は僕の今の思考の原点です)で社会学や文化人類学に興味を持つ。
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大学/複数受けて、国立と東京の私大(早稲田など)はきっちり落ちる。関西大学と立命館大学も落ち、結果、数学受験をした関西学院大学社会学部に合格。ほ。
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大学時代は、京阪神エルマガジン社という出版社でちょこっとバイトし、大学では書評系フリーペーパーを作る地味なサークルに参加。
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もともと文化人類学などをやりたいと思い、京大の人類学教室の調査@クック諸島にも一ヶ月ぐらい参加したが、毎年これをやるのは性格的にあわない、と思い断念。と、同時に、文化社会学/メディア論/美学・芸術学、に興味を持つ。
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大学四回生になり就職活動開始。まぁ、あんまし何も考えず、NTT他(当時はメディア系といえばこの辺)、出版社を受けようとしていたが、出版社バイトでたまたま取材で「電通」にいくことになり、初めて「電通」を知る(つまり大学四年まで知らなかったし)。
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出版社志望だったもののふと、「これから先、いろんなメディアが出てきても全部扱える会社は広告会社だけかも」と思い、広告会社に絞る。
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大広にOB訪問。すでに死滅しかけていた、ダブルのスーツ、システム手帳を持った当時のOB、タバコ臭い会議室などにやられ、ここは受けることを行わず。電通・博報堂だけにフォーカス。しかも、電通・博報堂なら確かにどんなメディアでも扱えるかも、と。
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で、電通・博報堂、OB訪問。面白い。と思われたらしく、青田買い進出。ところが、電通最終面接、博報堂1次、で敗退。
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一般で、電通・博報堂。電通はまたまた最終敗退。博報堂は。。。2次までかな?
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うーん、と悩んだ挙句、大学院へ進むことに。京都大学と同志社大学を受けて、前者は落ちたため、後者の大学院文学研究科社会学専攻修士課程へ。
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意外とまじめに勉強し、『ポスト消費社会論』『メディア論』付近を散策。
傾倒した本はこれ
当時はまじめに学会発表などもこなし、「"consumer"ではなく"user"と考えるべきであり、しかも"user"は自らの"context"にあわせて product などを自分たちの「意味」にあわせて解釈をしなおす」といった論を展開し、現代社会分析を行っていた。当時1994-96年。ここが今の原点。まさか10年ぐらいたって、このあたりが普通のことになってくるとは。。。
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実は大学院の1年生のときにも電通受けており。青田と一般両方受けるもどっちも最後に近いところで落ちる。
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そして大学院の2年生になり、再び青田で電通・博報堂を受けるも、どちらも玉砕。で
、最後のチャンスとして、両方を一般で受け、電通×。最後の最後に残った博報堂ではじめて当時の神田本社のビルに足を踏み入れ、内定頂戴する。忘れもしない、京都の北白川付近を走るバスの中で、携帯電話に電話頂戴しました。
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そして、入社前研修で、非常に優秀な同期たちと会う。しかも軽井沢の施設で行われた集合研修は、ケーススタディ的かつ共同作業が多く、あれば今もっても、博報堂のチームワークの良さ、スマートさはあの研修によって作られるのではないかと思う(なのできっと中途入社者が増えると、博報堂のこうした部分は薄まり、会社としての凝集パワーが弱まるだろうなあ、と、辞めたあとに思った)。
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で、コピーライター志望するも、制作職適正に落ち、博報堂で一番古い「出版営業局」にて営業修行。
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イベントから、媒体から、制作まで、なんでもやっていたので、非常に勉強させてもらった。広告業界の仕組みのすべてをやらせてもらったかも。媒体社との共同企画、とかネット関係なんかもこのころからやれたのは非常によかった。ちなみに広告主として一番メインで担当したのが多摩センターの教育系企業さんで、ダイレクトメールの開封率をあげるためTVCMのメディアプランなどを提案していたことは、今の思考につながるいい訓練をさせてもらったのだと思う。
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で、博報堂には4年目を過ぎると強制的に移動させられる制度があり、「営業に残る」といったものの、当時、「電脳体」という変な部署から発展した「インタラクティブ局」に異動になる。
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そしてここで「ペタろう」や「電子年賀状」を担当させてもらったのだが、このときおもったのが「インタラクティブ」は、単にクリックしてもらうことがインタラクティブなのではなくって、広告とそれに触れる人、企業と生活者、の関係をどうインタラクティブにするか、が大事なことなのだ、ということ。つまり、機能としてのインタラクティブではなく、キモチをどうつなぐかの設計がインタラクティブなのだ、とふと気づいたことが今の自分の骨になっている。
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で、そのあと、Iメディア局にもろもろあって異動。んで、分社化により、博報堂DYメディアパートナーズへ。
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日産自動車さんの『TRUNK』『日産デスクトップアプリケーション』を提案、実施させていただく。
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いろいろあって退職考える。博報堂の場合、退職届の中で退職事由を書くスペースは非常に小さい。「俺が辞める理由はそんなに小さいスペースではかけんわい!」ということで、退職事由欄に「別紙参照」と書き、A4/4ページに及ぶ「退職事由」と当時の博報堂のどこがダメなのか、について書いた”レポート”を添付した。
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で、いろいろあって電通。
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いろいろ異動したり、いろいろやらせていただいたが、電通時代の一番の仕事は、『牛乳に相談だ。』だと思う。このインタラクティブキャンペーンのプラニングは、コンセプトを自分だけでやったし(当然一緒につくってくれたバスキュールの皆さんや電通テックのメンバーもいたが、「コンセプト」は自分で)、しかもいろいろそれまでに培ってきた知恵をそこかしこに埋め込めたともに、そのナレッジを何人かにシェアできたので。
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で、いろいろあって、今の仕事に。


というわけで、浪人もしたし、何回受けても、電通・博報堂に受からなかったわけ(都合9回落ちてる!)で、まぁなんとかうまく波にのったというか、そんな感じなんですよ、本当のところは。エリートなんかじゃなく。

エリートってのは、スパーんと一流大学入って、スパーんと就職して、スパーんと出世する人のことです。むしろ、僕の場合、多少の努力と波にのれたラッキーなヤツ、が今の結果を導き出してると思います。