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「ケータイ/身体/alive」 2000/3 (『JustMOAI』ジャストシステム)

 ピクリとも動かず、全く無表情で、冷たい床にうつぶせになっている女性。白い右腕からは生身の人間ではないことが見て取れる、メタリック・シルバーの機械が剥き出しだ。そこに同様の色のケータイが現れ、と同時に静かに機械が動き出し、目を覚ます女性--。

 今まではケータイを使っているシーンを表現したCMがほとんどだった。しかし持っていない人なんていないんじゃないか?という普及状況の中で、「使ったらこんなに便利な生活が待っている」的な表現手法はもうありえない、のかもしれない。特に1978年生まれというケータイ・ジェネレーションに大人気の浜崎あゆみを起用した、ツーカーセルラー東京のTVCMは、これまでのケータイCMと一線を画している。カラダに埋め込まれてしまうぐらいに近い存在である=距離0(ゼロ)のケータイを表現している点でこれまでとは確実に違う。

 常に身に付けているものは?と考えてみる。時計?指輪?ブレスレット?ネックレス?しかし意外と口から出てこないのがケータイだ。単に、ポケットに入っている、バッグに入っている、首からぶら下げている...といった、感覚もなく、すでにカラダの一部となってしまっている感覚=「0」が僕らとケータイの現在の距離。それだからか、失なった時の不安感は、時計その他の比ではない。それはなぜか?もはやケータイは僕らの存在する世界・環境を凝縮したものに他ならない。別の言い方をすれば、僕らはケータイを持つことで世界を自分自身に引き寄せることができる。また持つこと自体が自分という人間のアイデンティティになってしまっているのだ。

 こんな例はどうだろう。とあるカップルがお互いの時計を交換し、それぞれの腕にしていた。相手のモノを身に付けることで相手との距離が「0」に縮まるというのがその理由。それは、時計そのものが彼氏/彼女の身体を縮小したもの=彼氏/彼女にとってはその時計は彼氏/彼女自身だということでもある。そうすることで相手との関係の中で自分自身のアイデンティティをも確認しているのだ。

 ではケータイの場合は? 自分のカラダの一部であるなら、そこからつながるいろんな人々との距離感ももはや「0」に近い。色んな場所で、たくさんの友人たちとケータイを介してつながることができる。実際に「つながって」会話をしなくても、アクセシビリティ(つながる可能性)があればそれでよい。それだけでケータイは、「ライフ・ライン(生活導線)」という以上に、常に生放送のようなライブ感で世界とつながっている「ライブ・ライン」となっており、臍の緒のように自分の存在に栄養源を与えられ「生きている」。 今、僕らが必要としているのはただ生きることではなく、世界に「参加」し「生きている感覚」=ライブ感。だから浜崎あゆみのTVCMは、すでにケータイが僕らにとって「生きる」ためのエネルギーあるとともに、それが世界とつながるスィッチであることを表現しているのだ。